私の江戸刺繍との出会い

 

 椿→受付のおじ様→人間国宝→先生。私を江戸刺繍の世界へと導いてくれた緑の図式である。遊びにきたついでに、何気なくフラリと立ち寄った浅草の伝統工芸館。黒い漆塗りの四角い板の上に飾られた、一輪の赤い椿。絵ではなくそれは刺繍だった。平面だったし、確かにそう見えた。でもよく考えたら、板の上に針を使って糸をぬいつけられる訳はない。あの椿はいったい何だったのか、気にはなったがそのまま月日は過ぎた。

 一年後、近くに立ち寄った際、伝統工芸館のことを思い出し足を運んでみた。けれどそこにあの椿は無く、かわりに私の心を捉えたのは、大きな横長の額におさめられた金糸の刺繍文字だった。龍がいる、そう思った。文字の後ろでどの風に乗って飛び出そうか、大きな体をゆったりとくねらせながら龍が息をひそめている。そんな感じがしたのだ。金文字の刺繍といえば、走族の「参上」くらいしか思い浮かばなかった私にとって、刺繍の文字がこんなにも威風堂々たるパワーをあたりに漂わせ、なによりそれに負けないくらいの上品さをまとっていることは衝撃的だった。

 たたずむことしばし。突然、龍の口が楽しげにパクパクと動き始め語りかけてきた。「ようこそ、いらっしゃ〜い」その瞬間ひらめいた「わたし、これ習わなくっちゃ」と。なぜそんなことを思ったのかわからない。刺繍という漢字すら書けなかったが、すぐさま受付の方の元へとんでゆき、「あの!日本刺繍習いたいんです。」とたずねてみた。「ん〜おじさんには、そういうの分からないから直接職人さんに聞いてみてもらえるかな」唐突な申し出にもかかわらず、親切に連絡先のメモをくれた。後日、教えてもらった連絡先に電話をかけもう一度申し出た。「あの!日本刺繍習いたいんです。伝統工芸館に飾ってあったみたいなの!!」「え〜うちでは教えるということはしておりませんが、弟子にあたる者がお教室を開いておりますので・・・」

 こうして紹介してもらったのが、現在、私が江戸刺繍を習っている先生なのである。めでたく教室に通う事となり、初心者最初の課題として渡された図案は、なんと椿の花だった。真っ赤な椿が微笑みかけてくれた。「やっと会えたね。待っていたんだよ!」と。不思議な緑に導かれて出会った江戸刺繍の世界は、今まで気付いていなかった自分の感性の扉を大きく開いてくれることになった。

 後日談・・・教室に通い始めて半年後。あの最初に連絡をとった職人さんが先生の父上あり、人間国宝でもある匠であったことを知った時の驚きは言うまでもなく、「あ〜知らなくて良かった!」もしも、そんなすごい人物だとわかっていたら、いくらとんちんかんな私でも「刺繍教えて!」などと、たやすく電話をすることはなかったから。もしそうなったら、今も一緒に教室で学ぶ楽しい仲間たちとも出会うことはなかったから。

 受付のおじ様&巡り逢わせてくれた不思議な縁に感謝!!

「石黒陽子の江戸刺繍」 
浅草会  宮本 かづみ

 

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